活字中毒者の禁断症状

引きこもりが読書感想文を提出するブログ

不器用

僕は生まれつきなのかどうかわからないけど物心ついたときからずっと手先が不器用だ。

1番最初の記憶は幼稚園の頃、折り紙の時間のこと。

みんなが先生にテーマ通りに折り紙を折っていくなか僕は紙を半分に折ることもできなかった。

半分折ろうとしてもどうしても斜めになるし、みんなのペースに追いつけない。

周りの折り紙の形が変わっていくのでそれに合わせてハサミで切って形を変えようとしたが、ハサミすら使えず結局手で紙をちぎるだけの時間になった。


次は小学校の家庭科の裁縫の時間のこと。

針に糸を通そうとしても全然通らない。授業の半分以上の時間を費やしてやっと針に糸を通す。当然授業には間に合わない。

なみ縫いの幅を大きくして誤魔化すしかない。評定はもちろん悪い。

やがてミシンを使う授業になった。まずミシンの動かし方も糸のセットの仕方もわからない。周りの真似をしようとしても何をしてるか全くわからない。当然クラスで1番進度は遅い。

そもそもランチョンマットなんて布っきれどうして縫う必要があるんだ。もう切って出来上がりでいいじゃないかと思うが、成績は気になるので仕方なくやるしかない。

提出期限なんて授業時間だけじゃ到底間に合わないので休み時間も放課後もずっと作業しなければならない。

でもミシンの動かし方も全く覚えられないので、勘でコンセントをつなぐ。動かないどころか熱を発し始めて煙が上がり始めた。

結局諦めて30分かけて糸を通し手縫いで縫う。評定はもちろん悪い。


手の不器用さは高校生になっても変わらない。理由は忘れたが、折り鶴を折らなければならなかった。しかし折り紙がまともに鶴の形をしてくれたことなんて人生で一度もない。誰が教えてくれても、横で一緒に折ってくれても自分の手元の紙だけぐにゃぐにゃしてる。釜茹で地獄直後のトリもどきくらいにしかならない。

ちょっと大人になった僕は愛想を覚えていた。頼みまくるしかない。自分で折ることはもう不可能だからとにかく人に頼んで自分の分も折ってもらうしかない。


手の不器用さは今でも変わらない。試薬を当量ずつ入れるのもなかなかできない。

これは仕事にしてはいけないと悟る。

僕が社会で生きていくには人に頼るプライドの低さと頼っても嫌な顔をされない愛想の良さがなければならないと常々感じる。